監督の打つなを無視した野球少年の末路


チームの「和」を乱す人は罰せられるべきなのだろうか。今年度から小学校で使われはじめた徳の教科書に「集団生活を乱さないことは、個人の考えより重要」とする教材が載っている。教育行政に詳しい寺脇研氏は「この教材は、作者の意図と異なり、『守るべき規範』を押し付けるものになっている」と摘する――。(第1回)

※本稿は、寺脇研『危ない「徳教科書」』(宝島社)の一部を再構成したものです。

■物議をかもした「星野君の二塁打」

小学校徳教科書で、もっとも議論の対となったのが6年生の教科書に掲載されている「星野君の二塁打」という教材である。

原作は児童文学者の吉田甲子太郎1894-1957)。もとは1947年に雑誌『少年』に掲載された作品である。1950年代から小学校国語の教科書に掲載され、また1970年代からは、「徳の時間」(正式教科となる前)の副読本の教材としてもしばしば使われてきた経緯がある。今回、2社の徳教科書に採用された。

星野君の二塁打

(打てる、きっと打てるぞ!)

星野君は、強くバットをにぎり直した。

かんとく示は、バントだけれど、今は打てそうな気がするんだ。どうしよう……。)

ピッチャーが第一球を投げ込んできた。星野君は反射的に、思いきりバットをふった。

バットん中に当たったボールは、ぐうんとのびて、セカンドショートの間をあざやかにぬいた。ヒット! ヒット! 二塁打だ。ヒットを打った星野君は、二塁の上に直立して、思わずガッツポーズをとった。この一打が星野君の所属するチームを勝利に導き、内野球選手権大会出場を決めたのだ。

その翌日も、チームメンバーは、練習を休まなかった。決められた午後一時に、町のグラウンドに集まって、焼けつくような太陽の下で、かた慣らしのキャッチボールを始めた。

そこへ、かんとく別府さんが姿を現した、そして、

「みんな、今日は少し話があるんだ。こっちへ来てくれないか。」

と言って、大きなかしの木かげであぐらをかいた。

選手たちは、別府さんの周りに集まり、半円をえがいてすわった。

「みんな、昨日はよくやってくれたね。おかげで、ぼくらのチームは待望の選手権大会に出場できることになった。本当なら心から、『おめでとう。』と言いたいところだが、ぼくにはどうも、それができないんだ。」

別府さんの重々しい口調に、選手たちは、ただごとではなさそうなふんいきを感じた。

別府さんは、ひざの上に横たえたバットを両手でゆっくり回していたが、それを止めて、静かに言葉を続けた。

「ぼくが、このチームかんとくになる時、君たちは、喜んでぼくをむかえてくれると言った。そこでぼくは、君たちと相談して、チーム約束を決めたんだ。いったん決めた以上は、それを守るのが当然だと思う。そして、試合のときなどに、チーム作戦として決めたことは、絶対に守ってほしいという話もした。君たちは、これにも気持ちよく賛成してくれた。そうしたことを君たちがしっかり守って練習を続けてきたおかげで、ぼくらのチームも、かなりが付いてきたと思っている。だが、昨日ぼくは、どうしても納得できない経験をしたんだ。」

ここまで聞いた時、星野君はなんとなく

(これは自分のことかな。)

と思った。けれども自分がしかられるわけはないと、思い返した。

(確かにぼくは昨日バントを命じられたのに、バットをふった。それはチーム約束を破ったことになるかもしれない。しかしその結果、ぼくらのチームが勝ったじゃないか。)

その時別府さんは、ひざの上のバットをコツンと地面に置いた。そしてななめ右前にすわっている星野君の顔を、正面から見た。

「はっきり言おう。ぼくは、昨日星野君の二塁打が納得できないんだ。バント岩田君を二塁へ送る。これがあの時チームで決めた作戦だった。星野君は不らしかったが、とにかくそれを承知した。いったん承知しておきながら、勝手に打って出た。小さく言えば、ぼくとの約束を破り、大きく言えば、チームの輪を乱したことになるんだ。」

「だけど、二塁打を打って、このチームを救ったんですから。」

と、星野君のヒットホームをふんだ岩田君が、助け船を出した。

「いや、いくら結果がよかったからといって、約束を破ったことに変わりはないんだ。いいか、みんな野球はただ勝てばいいんじゃないんだよ。健康な体を作ると同時に、団体競技として、協同の精を養うためのものなんだ。ぎせいの精の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ。」

別府さんの口調に熱がこもる。そのほおがくなるにつれ、星野君の顔からは、血の気が引いていった。選手たちは、みんな、頭を深く垂れてしまった。

星野君はいい選手だ。おしいと思う。しかし、だからといって、ぼくはチーム約束を破り、輪を乱した者を、そのままにしておくわけにはいかない。」

そこまで聞くと、思わずみんなは顔を上げて、別府さんを見た。星野君だけが、じっとうつむいたまま、石のように動かなかった。

「ぼくは、今度の大会で星野君の出場を禁じたいと思う。そして、しっかりと反してほしいんだ。そのために、ぼくらは大会で負けるかもしれない。しかし、それはしかたのないことと、思ってもらうよりしようがない。」

星野君はじっと、なみだをこらえていた。

別府さんを中心とした少年選手たちの半円は、しばらく、そのまま動かなかった。

■「監督の指示は絶対」となるのは明らか

これが、教科書に収録された「星野君の二塁打」である。監督サインを守らなかった星野君に対し、勝利に貢献したという評価は与えられず、逆に出場禁止という罰を与えられてしまう。

ある教科書を見ると、この「星野君の二塁打」というタイトルの横には「チームの一員として」というキャッチが添えられており、さらに上部には「よりよい学校生活、集団生活の充実」という表記がある。

これは、学習導要領に掲げられた小学校高学年用の項名そのもので、その導内容である「先生学校の人々を敬愛し、みんなで協し合ってよりよい学級や学校をつくるとともに、様々な集団の中での自分の役割を自覚して集団生活の充実に努めること」を教えるために、この「星野君の二塁打」の話を入れましたよ、ということをわざわざ念押ししているのだ。

これを前提に子どもたちに議論させたならば、どういうことが起きるか。「星野君は間違った。悪いことをした」「監督示は絶対。それを守らなかった星野君が悪い」という意見が圧倒的に多くなるのは明らかだ。

■監督の指示に忠実だった日大アメフト部

しかし、それは一方で「結論の押し付け」でもある。たとえ監督示が明らかに間違っていると思ったときでも、100%示を守らなければいけないのか。あるいは、たとえ示に反した行動を取ったとしても、それによってペナルティを与えられるべきなのか。

そうした議論はあっていいはずだが、この「星野君の二塁打」の話からはそうした議論の発展が生まれにくく、「集団生活を乱さないことは個人の考えより重要」という結論しか見えてこない。

2018年日本大学アメフト部の宮川泰介選手が、監督示されたとおり、相手選手に悪質なタックルを仕掛け、大きく報道された一件があった。タックルで相手を潰しケガをさせなければ、自分は試合に出させてもらえないという葛のなかで、宮川選手は相手に反則タックルを仕掛けた。

果たして、監督示を忠実に守った宮川選手はいけないことをしたのか、もしそうだとしたら何がいけなかったのか、自分だったら監督示を拒否することはできるか――この「宮川君のタックル」の実話のほうが、「星野君の二塁打」よりよほど、「集団の中での自分の役割」を考え議論する材料に適しているように思う。

■星野君は命令に背いて、甲子園に出場停止となった

もともと、この「星野君の二塁打」は、徳の教材のために書かれたものではない。日本国憲法布され、教育基本法が施行された1947年にこの物語を発表した原作者は、野球の話を通じ、民主主義的な態度というものは何か、あるいはスポーツの精というものについて考えてほしかったのではないだろうか。

掲載誌の『少年』は1946年創刊の少年向け娯楽読み物雑誌であり、江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズを看にしていた。

また、原作は「甲子園の全中等学校野球大会」、つまりいまの全高等学校野球大会の地区予選決勝の話であり、星野君は「次の試合」でなく甲子園に出場停止となるのだ。当時の中等学校はいまの高校、つまり高校生の陥る葛の話を、あたかも自分のこととして小学校6年生に考えさせている。

しかも、これが徳の教科書に使用されると、話の結末が、生きるうえでの守るべき規範という形で押し付けられることにつながりやすく、作者の意図とは違ったところで「監督示にはいかなるものでも絶対に従わなければならない」という全体主義的な結論が導かれかねない。

確かに野球の試合の場合にはそうかもしれないが、もっと広げて考えれば、人生のいかなる場合にも、上からの命令に従い続けるべきだろうか。命令や組織の「和」と称される暗黙の決まりが、必ずしも正しいとは限らない場合もある。この「星野君の二塁打」で、そうした広い議論ができるかどうかといえば、それは大いに疑問だ。

■教科書でカットされたシーン

教科書に掲載されている「星野君の二塁打」の話は、いまの高校野球に相当する中等学校野球小学生少年野球にされているのをはじめ、原作を教科書用に都合よく編集してある。原作では、星野君が打席に立っている間の描写が細かく、彼の内心の葛が細かく表現してある。星野君は、決して安易に「ヒッティング」の判断をしたわけではない。

また原作では、監督が試合翌日に星野君に対する批判を始める前、キャプテン大川君を呼びこんなやりとりを交わしている。(一部現代仮名づかいに変更)

「ぼくが、監督に就任するときに、君たちに話した言葉は、みんなおぼえていてくれるだろうな。ぼくは、君たちがぼくを監督として迎えることに賛成なら就任してもいい。校長からたのまれたというだけのことではいやだ。そうだったろう。大川君。」
大川は、先生を見て強く、うなづいた。
「そのとき、諸君は喜んで、ぼくを迎えてくれるといった。そこで、ぼくは野球部の規則は諸君と相談してきめる、しかし、一たんきめた以上は厳重にまもってもらうことにする。また、試合のときなどに、ティームの作戦としてきめたことは、これに従してもらわなければならないという話もした。諸君は、これにも快く賛成してくれた。その後、ぼくは気もちよく、諸君と練習をつづけてきて、どうやら、ぼくらの野球部も、少しずつがついてきたと思ってる。だが、きのう、ぼくはおもしろくない経験をしたのだ。」

教科書では薄められているが、監督校長からの依頼だけでは引き受けなかった、部員の了承を条件に就任を決めた、という経緯が書いてある。作者メッセージは、監督が出したバントサインを守らなかったことの是非ではなく「みんなで決めたことは守っていこう」という「民主主義の原理」だったのではないか。

■原作とは違う「後味悪い幕切れ」

また、これも教科書には掲載されていないが、原作の最後の部分にはこうある。

「ぼくは、星野君の甲子園出場を禁じたいと思う。当分、謹慎していてもらいたいのだ。そのために、ぼくら甲子園の第一予選で負けることになるかも知れない。しかし、それはやむを得ないこととあきらめてもらうより仕方がないのだ。」
星野はじっと涙をこらえていた。いちいち先生のいうとおりだ。かれは、これまで、自分がいい気になって、世の中に甘えていたことを、しみじみ感じた。
星野君、異存はあるまいな。」
よびかけられるといっしょに、星野は涙でったをあげて強く答えた。
「異存ありません。」

ここで星野君は監督の「処分」を受け入れ、自分なりの態度をはっきりと表明している。教科書の、後味悪い幕切れとは大違いだ。作者はここで星野君が間違っていたことを念押ししたかったわけではなく、摯に反ができる人間の強さと美しさを伝えたかったのであろう。しかし、教科書ではこうしたシーンカットされているため、示に従わなかった星野君が救いのない形で描かれ、結果として「監督に言われたことは守ろう」といった方向になりがちである。

■「犠牲の精神」がなければ社会へ出てもダメ?

さらにもうひとつ摘したい重大な問題は、この話のなかに出てくる「犠牲」という言葉に関してである。「犠牲」とは、もともとげる「いけにえ」のことであり、小学生には極めて難しい意味合いを持つ。

この部分については原作にも、監督セリフで「ギセイの精のわからない人間は、社会へ出たって社会を益することはできはしないぞ」とあり、これが教科書では「ぎせいの精の分からない人間は、社会へ出たって、社会をよくすることなんか、とてもできないんだよ。」となっている。

300万人以上の日本人とその何倍ものアジアの人々が犠牲になった戦争からたった2年後に書かれた原作のこのセリフには、大いに疑問を感じる。

「集団のための犠牲」というと、満州からの引き揚げに際し、お年寄りや子どもを含む集団の安全を守るため、因果を含めたうえで未婚のたちをソ連兵に差し出した悲惨な実話「差し出されたたち」など枚挙にいとまがない。

「ギセイ」とわざわざ片仮名で書いたあたりに作者のわずかばかりの逡巡は匂うものの、戦争を反人権尊重をうたう日本国憲法が施行された直後に発表された作品とは思えない神経さだ。

こんなセリフを、そのまま現在の教科書に使っていいはずはない。すでに「犠牲バント」という言葉が消え、単に「バント」あるいは「送りバント」と呼ばれるようになって久しい現代において、「犠牲の精」がなければ社会へ出てもダメだと決め付けるようなもの言いは時代錯誤だ。ちなみに、もう1社の教科書では「犠牲」の部分は使われていない。この話をこんな形で徳の教科書に使うのは不適切ではないだろうか。

そうした例は、この「星野君の二塁打」ばかりではない。(続く)

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(てらわき・けん)
京都造形芸術大学 客員教授
1952年生まれ。東京大学法学部卒業後、75年文部(現・文部科学省)入92年文部初等中等教育職業教育課長93広島県教育委員会教育長、1997年文部生涯学習局生涯学習振課長2001年文部科学省大臣官房審議官、02年文化庁文化部長。06年文部科学省退官。著書に『国家教育支配がすすむ』(社)、『文部科学省』(中新書ラクレ)、『これからの日本、これからの教育』(前川平氏との共著、ちくま新書)ほか多数。

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※写真はイメージです(写真=時事通信フォト)


(出典 news.nicovideo.jp)


<このニュースへのネットの反応>

歪んだ共産主義の末路みたい


でも大衆は英雄的犠牲が好きだよね。


人間は古い群れから離れ、新しい群れを作ることも可能なのですよ。たとえ成功の可能性が低くとも、自分が正しいと思うなら。


こんなときの万能返し「監督に人を*と言われたら*のか?」これでおk


日大のルール無視の殺人タックルと、ルール内でちゃんとした戦略の送りバントを一緒にするな


長い、三行で


対比のために「私は貝になりたい」(1958年)を見てみよう


相当マイナーな教材なのでは?と思うんだけど。それこそ○○学園みたいなアレな学校くらいでしか扱わないような。


味噌も*も一緒だな、、、


この話は定番なんだろうな、漫画でも貝塚ひろし氏・竜崎遼児氏他、野球漫画に限らず集団競技なら必ず描かれるし。


この筆者にこそ道徳教育した方がいい


「小学校の道徳教科書で、もっとも議論の対象となったのが6年生の教科書に掲載されている「星野君の二塁打」という教材である」。からの「もともと、この「星野君の二塁打」は、道徳の教材のために書かれたものではない」。でもう答えが出ているのに尚更論って書かないといけない記事ではないよね


犠牲に報いれる上司ならね。


こういう方向で、是非とも道徳に教育勅語を導入して欲しいですね。


でも、国から人を*と命令されれば人を*のだからいいじゃないのwww


監督やチームで決めた戦術に従えない選手が干されるのは当たり前だと思いますが、殺人タックルのような明らかな愚策を鵜呑みにせざるをえないのはそういう教育だけの問題ではないので、延長線上の話ではないのでは(笑。


他人に犠牲を強いる前に、まずお前が犠牲のモデルとして身を捧げろ。それができないヤツが社会に出ては他社に同調を強いて迷惑をかけている。


これはファンタジー。実際の少年野球監督はこんな諭すような言い方しないゾ。徹底的に罵倒してその後無視して終わり。


とりあえず原作の出場停止を了承する星野君は色々と偉いと思う。監督でも星野君でもない立場なら指示無視を問題視するべきか、結果を出した戦力を外してしまう行為を問題視するべきか難しい。星野君の了承があるならその分監督の判断の持ち上げになっている。不満もあるだろう立場でそれを出来ている点でチームの和に貢献していると思う


監督の指示は絶対、それは監督の命令の範疇なら監督が絶対に責任を取るという事。野球の監督は方針も事情も説明してる、選手を自分の地位や自己顕示の為に消費して責任も取ろうとしなかった日大の監督と一緒にするのは違うと思う。「結果オーライなら良い」とは確かに思う、がそれ失敗した時責任取るの?って社会に出れば言われるよ。まぁ俺は結果オーライ狙って良く失敗するけど。


この答えが道徳的正解だとしたい様だがそうはならない。世間に出ても結局自分意外に自分を守れないと自覚するだろう。


なんか違和感感じるなぁ。小学生の道徳の教本でしょ?これって結果を出すためなら約束事を破ってチームの輪を乱しても良いのか、っていうことを考えさせるための教本じゃないの?人生のいかなる場合にも、上からの命令に従い続けるべきだろうか、とかそういう広い議論を小学生にさせたいわけじゃないと思うんですけど。


何方とも言えるかなー。指示に従わない人間は、良く言えばこの世界を変えて行ける可能性があるんだよね。天動説と地動説の話は有名で、大勢がそうだといっても、それが正しいとは限らないんだよね。そんなものは出来っこないと言われ続けた人間が、カップラーメン開発から宇宙進出までやってしまってるからね。其れの積み重ねで今の世界が成り立っているんだよ。


大谷の二刀流なんて、理解があったから出来ていたけど、日本の教育じゃ禁止されてたっておかしくなかったんだよね。


(見える、私にも見えるぞ!)


一度合意したことを自分の勝手で守らないのは、慰安婦合意の韓国的な行動なんだな


やあ、もはや自分が主導したゆとり教育導入を正当化するためだけに生きている元文科省官僚の寺脇研さんじゃないですか


要するに「勝っても俺の指示に従わなければ許さない。でも指示に従って負けるのも許さない」と…ほんとクソみたいな話だな。


「みんなが決めたから従う=民主主義的」は間違いだよね。共産主義も社会主義もナチスもすべて合意のもとに形成されたんだから。それに教育という観点から見ても、素直に賛同しづらいなー。これってチャンスが来てもバットを振らない指示待ち人間になるだけでは? もっとも、約束を破っていいのかと言われると良くないから困る。


日本の良い部分でもあり悪い部分でもあるところだな。日本が世界から称賛されるのはこれらの自己を犠牲にできる和の精神だけど逆に枠に収まった器用貧乏みたいな人ばかりになってしまう負の部分もある。今の状況では日本人として安定した人生を送るかオンリーワンな自分として波乱含みの人生を生きるかになっちゃうね


これが米国なら「正当な理由があり、国家(=仲間)に迷惑をかけず、違反するだけの価値があるなら、堂々と自己責任でやれ。そうでなければ命令に従え」なんですけどね


”監督の指示は絶対か”が独り歩きしてるだろこれ、監督はチームの勝敗に責任を持つ、その代わりチーム編成や試合中の采配の権利を与えられている。部下(選手)はその指示に従うのは当然だろ。選手が指示に従わずダブルプレーを取られたら?その結果チームが敗退したら?責任取ってその選手はチーム辞めるの? *と言われたらーとかただの論点ずらし、バカじゃねえのか?


監督に*と言われたら*のか→そういう契約の元業務に当たっているのなら*。野球チームの監督なら野球に関する指示以外従う義務はない。おわり。(自衛隊に入隊し、上官に敵を*と言われても*ないのか?当然*に決まっている。そういう契約を結んでいるのだから。逆に自衛隊の上官に草野球での指示に従わなかったからと文句言われる筋合いはない。)


これはたまたまヒットだったけど、例えばランナーが自己判断で暴走した結果クロスプレーになり相手選手に怪我させる場合だってあるからね。その時も監督が責任取らなきゃならないんだからやっぱ勝手な判断は止めて欲しいと思うよね


打ってまえ打ってまえ!。監督?、知るか!。ほーら勝ったで!お前のおかげや!!。さー今夜はパーティーや!。監督ベプシ買って来いや!。


野球やってた人が飲んで恨みをぶちまける定番の話である。


日大タックルは監督の考えが全員の結論と同じかを考えるとオカシイとすぐわかるけどなぁ。集団の上で野球はあるから、個人が努力しても勝てない。仮にヒットで勝利しても、その過程あっての勝利だからヒットだけが勝因ではない。…だから野球は嫌い


この「勝手に打った二塁打」は「関東軍の暴走」そのもの。結果を出せば上の指示に従わなくてもいい、が蔓延した結果、勝ち目のない戦争への突入だった。そして今、ようやく理解した。プレジデントをはじめとする連中は辻政信や牟田口廉也のお仲間なんだ。終戦とともに日本から出し切らなければいけなかった膿「真の戦争犯罪者」そのものなんだと。


関東軍は二塁打打ってないから。ヒット性の強い当たりをショートに取られて三重殺、試合終了だから。まぁ監督も相手ピッチャーが投げるまでに支持出せてなかったから暴走して当然なんだよなぁ。


「結果を出しても勝手は許されない」を「集団のための犠牲」と混同させようとすること自体が極めて悪質だし、「集団のための犠牲」自体を無理やり悪にしようとすることはさらに悪質。火事が起きた時、その周辺の建物を壊して延焼を防ぐ、性質の悪い病気が発生したとき隔離して蔓延を防ぐ。大事なのは「最大多数の最大幸福」であって左翼の自己満足のために人々が犠牲になってはならない。


>ゲスト じゃあ、関東軍の出した結果が「あなたにとっての二塁打」に相当するものだったら関東軍は悪くなかったと?たとえ二塁打が満塁ホームランでも、私には関東軍を擁護する気はありませんが、あなたにとっては結果さえ出していれば関東軍も正義なのですね。


まあ私の文章も誤解を招く部分はありますが。実際に「勝手な二塁打」を打ったのは石原莞爾ですが、結果を出そうが出すまいが、勝手は許されないという結論に何も違いはないでしょう。


犠牲になる人をある程度もてはやさないと誰も犠牲になんてなりたがらないのは当たり前だよな。でも悲しいがな誰かは犠牲にならなきゃ社会は回らないんだよな。俺に言わせればそんな社会構造自体が間違ってると思うけどね。


ネイマール「ワイが監督に噛み付いたときは監督の首が飛んだんやけどなぁ…」


(かんとくの指示は、バントだけれど ~   なぜ急に平仮名になるのか


野球ってこんな古臭い考えがまだ残ってるのか。ヘドが出るな。選手の判断が全てだろ。監督の指示なんざ破って当たり前、自分で判断出来ないほうがおかしいわ。野球以外のスポーツは現代ではそうなってる。そら野球は廃れるわ。


>christophe なんという浅はかさ。RPGで言えば野球はターン制コマンドバトル、サッカーなどはリアルタイムバトル。打席ごと打者ごとに指示を出したり相談したりできるのはそれはそれで個々の判断に任せるのとは別の魅力があり、他のスポーツ以上に「緻密な作戦」による「展開の創造」が出来るという「特色」がある。多様性を否定する人間にはわからないのでしょうけれど。


指示と違う行動をとって、自分だけが損する、自分だけが危険になるなら勝手に*という話だが、問題は多くの場合他人を巻き込むこと。そのリスクを加味してどういう手を打つか考えるのが管理職の仕事で、おつむも足りなければ情報も足りない末端が勝手な行動をとって全体を危険に晒すなんてことは許されないんだよ。それが集団行動というものだ。自由が欲しければ一人でやってくれ。


幾つかツッコミ所がある。まず良く言われるのが「道徳には正解がない」。これを筆者は理解していない。俺はこの話を読んで道徳の教材にはピッタリだと思ったんだけど、何故かというと、道徳では生徒にディスカッションをさせる。これは「自分の考えと違う人間がいる」ことを理解してもらうためだと俺は考えているからだ。


筆者は「星野君は正しい」という前提に拘り過ぎている。それは道徳の授業ではない。また、「先生が正しい」という前提にも拘るべきではない。これは道徳の教材だからだ。それぞれの登場人物が何故そう結論付けたのかを正しく理解することがまず大事なのだ。星野君には星野君の都合があり、先生には先生の都合があったというだけの話なんだよね、これ。


ちなみに俺は先生が正しいと思うよ。だって星野君が上手くいったのは結果論だもの。上手く行く保証がない。ここで星野君が約束を守るというのは、仮に作戦が失敗しても、約束を守った星野君を先生が守るという意味だ。和を守るというのは和の中で責任を共有するということだ。日大ラグビー部が悪いのはその責任を学生に押し付けた点で、この話とは全く筋が違う。


星野君の心情に近い児童に、納得は別として、先生の覚悟込みの心情を理解してもらうことが、道徳教材としてのこの話の役割だと俺は理解しているわけ。筆者はアタマが足りてないと思うね。


星野君が最終的に納得したという部分を端折ったのは、道徳教材として意図したことだと俺は思う。納得はできないが理解はできる先生の発言にどう対応するかは、これを読んだ児童が決めるべきだからだよ。星野君に言わせたら児童が考える余地がないだろう。


犠牲の精神を強いるのはいいけど、プロ野球だったら犠牲の精神は選手の点数に結びつかないんじゃないの?


皆で決めた作戦と上記されてるが実際監督の一存。球児が敗退して流す涙は監督の為のものではないよ。監督の為の試合だと思ってる観客も存在しない。


勝ち負けはただの結果論じゃん。今回は勝ったというストーリーで書かれてるからいいけど当然負けることだってありえる。つまり結果がどうだったかは関係なく、チームの戦略を無視して勝手なプレイをすることが果たして良いことなのか悪いことなのかってことでしょ。


あと、先生が言っている犠牲の精神って、*って言ってるわけじゃないと思うけど。自分の何かを差し出して代わりに社会から何かを受け取り、それで社会は動くって話じゃねぇの?例えば労働を金のためだけじゃなく社会貢献のために行うのも犠牲の精神じゃん。それって悪いことなの?


筆者の意見は一人の児童の意見としては成立すると思うけど、それ以上では決してないね。


・・・まぁ66歳児にこんなこと言うのも失礼かもしれないけど。


誰が書いた話か知らないが「自分の行動に自分で責任を持つ」結論に至ってないのが情けないね、この場合なら「監督が選手の信頼を得られなかったら責任を取って辞任する」が正しい展開だろうな


つか、これ道徳の教科書なんでしょ?これは題材であって、こういった話を元に子供達が議論するっていうのが俺の経験した道徳の授業なんだけど。指導要領でどっちの主張が正しいという方向に持って行きなさいとか指示があるんなら問題だけどさ。


野球って自由と責任のないスポーツだね


どうでもいい そのチームがその方針で行くなら好きにすりゃいいし それが嫌で好きにプレイして結果で物見て欲しいならそういうチームに入ればいい話 出ていけって言う自由と出て行く自由があるだけで 言う事を聞かせる自由やチームの方針を個人の意見で変える自由も無いだけの話だろ これはどんな組織にも言える事だけどな


>BSSK 同じターン製バトルの究極ともいえるアメフトでは選手が自分で判断してますよwwwwwwブーメラン乙


>それは道徳の授業ではない ←たぶん筆者が懸念してるのは、ダメ教師が手抜きの授業やって、児童が自分で考えることをせずに「正解」を押し付けられて終了、この「教科書」だとそんなことが起こりそうだということじゃないのかな。小学校の教師ってディスカッション、ディベートの経験も無さそうだし。


>christophe じゃあアメフトの「監督」って何してんの?それとも監督はいない(いらない)ものなのか?


ていうか、集団競技で、意思・意識を統一せずに選手がそれぞれ個々に判断してたら作戦なんて成り立たないんじゃない?そんで、アメフトのヘルメットにはイヤホンが付いててコートから無線で情報や指示が来るって、ググったら出てきたが?少なくともすべてを「選手が自分で判断」ということはありえないのでは?


バカだなおまいら、「選手の好調を見れない無能監督」この一言で相反する2つの意見を封殺出来るじゃろ


>ginkgolide いや、知らないなら知らないで黙っとけばいいのに・・・。詳しくは映像で確認してよ。俺の言ってることも分かるだろうから。つーかサッカーでもバスケでもアイスホッケーでもラグビーでも「最終的な判断を下すのはプレイヤー」ってのは当たり前の話だろ?それも知らない人なの?


・・・これ指導要綱に載ってないだろうから怒られるかもしれないけど、俺が教師だったら道徳の授業で児童に言いたいことがあるわ。「この話の先生は星野君の納得を得ることができたようだけど、星野君には反発する気持ちも残ったと思う。俺が君ら(目の前の児童たち)に同じように罰を与えなきゃならないと考えたとして、理由を正しく説明するのはとても難しいと思う」


「なら君らが逆に俺の立場だった時は、どうしたらいいと思う?」って。


細かい状況分からんままに作戦の話してもしょうがないかもしれんけど、「今日はダメそうだからバントさせとこう」って思われてるのに、「今なら打てる気がする!」って思っちゃう星野君もどうなんだとw なお後のドラゴンズ監督


「今日はダメそう」とか「打てる気がする」とかフワっとした話しかしないから昭和野球脳は相手するの疲れる。データ使えよ・・・それで双方納得するだろバカバカしい。


そもそも今のご時世こんな崇高な精神持って働いている人が果たして何人いるやら。精々片手の指で足りる数が限界だろうな


答えを言っちまうと、この話の先生は理由として「約束」を使った。相手の納得を得るための保険を先に打っておいたわけだね。これがないと星野君の納得は得られなかったと思うし、そもそも先生が強く星野君を戒めることはできなかっただろう。こうして意見が割れることはあるけど、相手の納得を得るためには段取りが必要で、それを無視するとケンカになるし尊敬して貰えない。


「仮に自分が正しかったとしても、それで揉めることもあるってことを覚えておいてくれ」って、俺が教師ならそう児童に教えるよ。


事実二塁打打てたんだろ、監督が間違ってたんだよ、バントだって失敗はする。現実タイプの違う選手達を使いこなしてこその名監督、ハイしか言えない蟻多くてもそうは勝てんよ、物量戦になるだけ


いやホント、考える余地がたくさんあってかなり面白い教材だよ、これ。


甲子園出場校の監督って負けたら自分の責任って言い切る人が多いですよね。そういう覚悟で監督やってるんでしょうし、泣きながら選手に謝罪したり感謝したり人間ドラマが見れて素晴らしいですね。引き合いに出した日大アメフト監督って責任を選手に丸投げした奴ですよね。


ブラック社会入門編という意味では良い教科書ですね^^ 反面教師としては良い教材。明らかに監督が独善的で、次の試合で負けるかも〜のくだりから結果についても責任を感じてないらしい。自分を見せずに誓約させてる時点でもうね。


絶対的な正解は無いし、これを小学生が議論するのが面白いんだよな。自分もやった記憶あるけど懐かしいわ。ただ、日大アメフトの件は場違いです。


たまたま二塁打になって結果オーライで1点競う投手戦でこれやられたらたまったもんじゃないな。プロだったらゲッツーなった時*ほど野次られるぞw監督としても「そういう指示をする監督」として見られるわけだしいい事ないわな。勝ち負けしか見てない外野は喜ぶだろうが。


反軍主義的な文面が入ってて台無し。


カットされたって、簡略化はされてるけど「君たちと相談して、チームの約束を決めた(以下略)」ってちゃんと分かるように書かれてるだろ...最後の部分も結論まで書いたら道徳の教材として使えんだろ。


あくまで結果論だからね その指示が原因で負けた場合監督がそれをどう受け止めるかによるけど責任の所在は監督自身にいくしその身の振り方もある じゃあ選手が勝手な行動をして失敗した最悪のケースが起きた場合どうなるかって話だと個人的には思う


数年後、立派な893の組員として働く星野君の姿がありました・・・まで余裕で想像できるんですが。割に合わない人生左右する厳罰下せば「歪む」だろう事もわからんのでしょうかねこの監督は。


四捨五入すると40代の中年だけどこの話リア小の時読んだな。今も教材に使われてるんか。なおうちの学校では議論とかはないまま監督の指示を守らず和を乱した星野君はいけない奴だ、と担任教師が結論付けて終わった模様。おかげで今もこの話にモヤモヤ感を拭えない……


なる程、原作は素晴らしい話だな。そうでなくとも、生徒と真剣に話すこの監督は素晴らしい人だと思う。現実の先生や監督なんて、ただ命令違反で拗ねて怒鳴り散らす奴ばっかじゃないか。


これが少年野球だと『別のチームに移って終わり』なんだけどね。今は少子化のおかげで人材争奪戦が凄いコトになっているから。


監督してほしいなら監督になる→民主的やな 皆で決めた約束は守る→民主的やな だから監督の指示に従わない結果を出しても奴は処分する→独裁政権待ったなし  次は監督の好みで主力メンバー決められ始めるぞ。


震災の時に多数の犠牲者を出した某小学校の事例でも出してやったら?


戦場にルールはない。時の運もある。生活において”絶対”は存在しないよ。道徳の教材だけど、先生の指示に従う事事態間違っている。その時の直感に従え、センスは自分だけのものだ。和を乱したのは先生だ。直感は70%当たっている。


団体競技にあってリーダーの指示で動くのは大前提、従う気がないなら監督と話し合って自分に対して指示は不要と納得させるしかない。日大とは【指示がルールに即している本作と指示内容がルール逸脱した日大】という決定的な差があり延長線上になど存在しない。


従わなかった事と、従わなかった結果成果を出した事を切り分けて考えちゃいけないのは軍隊くらいですよ……。一般的な教育の過程において、賞賛しながら叱責もするって事ができず、一方的な叱責とペナルティだけで終わらせるとか、教育でもなんでもないただの奴隷精製でしかない。なんでそういう所極端にしたがるのかというと、その方が楽で、尚且社会的に都合がいいからなんだろうけど…


何が問題って、今の時代は成果主義を掲げて世の中が進んでるからね。結果論であろうと成果を出した人間が正義であるという主義で(少なくとも表向きは)社会が動いてるのに、その社会の動きにそぐわない成果の否定を盛り込んだこの話に異論が呈されない方がむしろ間違ってる。とはいえ、組織的行動において、上役の支持を仰ぎそれに従う事の重要さというのもまた同時に学ぶべき事柄だから


星野くんが手放しに賞賛されるのもまたおかしい。それもまた社会において成果を挙げるには必要な要素だからね。昭和の頃ならまだ成果主義は掲げられてなかったから、星野くんの納得は当然なんだけど、今は時代が違うからどちらか片方が正しいとはなりえない。


これを読んで内容を議論し合う。そこまでして道徳だな。


道徳の教材にするなら非難する側は監督(偉い人)ではなくチームメイトにしないとパワハラ云々奴隷形成云々になってしまうから教材としてよくないと思うぞ


この無能な監督こそクビにするべき。


殺人タックルはどう考えても悪い事だけど、二塁打を打つのは不確実じゃん。会社の金を「鉄板のレースだから」と競馬につぎ込むのと何が違う?




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